犬-Side Nana

 私はムーンブルクの王女でした。名前は、ナナ。だけど今は、ただの薄汚れた犬。
 一週間前、いえ、もっと経ったでしょうか……私の暮らしていたムーンブルクの城は、邪神官ハーゴンの軍勢に襲われ、私は犬に姿を変えられて、この町に飛ばされました。
 生まれてこの方、城から出たことも無い世間知らずの私には、ここが何という名前の町なのかもわからず、食べ物を探すことも出来ず、絶望し、怯えて、人通りも少ない町外れの道端で、お腹をすかせて震えていました。
 そんな私の姿を見つけた二人の少年は、面白半分に私に石を投げ、木の枝で突き、私が逃げる気力もないと見るやいなや、行動はエスカレートして、私がボロボロになって動けなくなるまで小突き回しました。
「きったねー犬!」
「死にかけてるよ」
「なー、こいつ解剖してみようぜ!」
「えぇっ、やだよぅ気持ち悪い」
 嗚呼、世も末ね。庶民の子どもたちって、皆こんな感じなのかしら。少年達はなおも私の体を突いて転がし、私はもう抵抗する気力も、声を上げる気力もなく、ただされるがままになっていました。
 そのとき、私の頭上から、低く冷たい男の声が降ってきました。
「ふーん、犬か。今買ってきた剣の試し斬りに丁度いい。ちょっとどけよ、糞餓鬼共。」
 力を振り絞って見上げると、私と同じ年頃のダークブロンドの青年が、鞘からぎらりと光る剣を覗かせながら、ぞっとするような邪悪な笑みを浮かべて立っていました。
「う、うわあああ」
「待ってよー、置いてかないで!」
 私を小突き回していた少年たちは、怯えて叫びながら走り去って行きました。
 嗚呼、いよいよお仕舞いだわ。私はこの男に切り捨てられて死ぬのね。もうすぐ、お父様に会える……。どうか、一思いにやって頂戴。
 私は目を閉じて、死ぬ覚悟を決めました。
 すると、私の体を暖かく懐かしい感覚が包み込みました。小さな子供の頃、お転婆にはしゃぎ回って転んだ私の擦りむいた膝を、お父様が癒してくださった、あの回復呪文。私が驚いて目を開けると、私の体に無数にあった傷は消えさり、傷みもなくなっていました。あのダークブロンドの青年が屈みこんで、翡翠のような緑色の瞳で私をじっと見下ろしています。この青年が私に回復呪文をかけてくれたのでしょうか。さっきの少年たちのことも、追い払ってくれたんだわ。私は感謝の念がどっと押し寄せてきて、思わず声を上げましたが、やはり喉から出てくるのは犬の声で、お礼の言葉を伝えることも出来ませんでした。
 そんな私の姿を見つめて、青年はぽつりと呟きました。
「お腹空いてるのかな……」
 青年は持っていた荷物の中から質素な器を一つ取り出すと、その中にパンと水を入れて、私の前に置いてくれました。
 お城で暮らしていた頃の私だったら、水でふやけたパンなんて、絶対に口にしなかったでしょう。けれど、空腹で今にも死にそうだった私にとっては、この上ない程のご馳走でした。
 夢中でパンを食べる私をじっと見下ろす青年の目は、私を見ているようでいて、私を通り越して何処か別の遠い場所を見ている様でもありました。私が食べ終えた後も、彼は何故かどこか悲しげな面持ちで、しゃがんで膝を抱えたままずっと私を見つめていました。
 するとまた私の頭上から、別の男の人の声が聞こえてきました。
「アーサー、何してるんだ?」
 見上げた私は、驚いて目を丸くしました。昼間だというのに、その人の周りはまるで月光を浴びているかのように、不思議に輝いて見えるのです。煌めく銀色の髪に、サファイアのような澄んだ青い瞳。黙って立っていても溢れ出る優しさが、世界を包み込んでいくようでした。
 ああ、この御方だわ。と、私は思いました。これまでにお会いしたことは一度も無いけれど、私は確信していました。この御方こそ、ロトの血を引く勇者……ローレシアの王子、ロイ様だと。
 私がロイ様に見とれていると、ダークブロンドの青年が立ち上がって、慌てたように言いました。
「なんでもないよ。」
 立ち上がった青年の纏う緑色の衣服には、私のよく見慣れたあの紋章があしらわれています。では、この青年はサマルトリアのアーサー王子。二人は共にハーゴン討伐の旅に立ち上がったんだわ。私は勇気が胸に湧き上がってくるのを感じました。
 ロイ王子は惚れ惚れするような優しい笑顔で、アーサー王子に言います。
「犬?餌をあげてたのか?優しいじゃないか。」
「そうだよ、僕って優しいんだ。知らなかった?」
 アーサー王子はバツが悪そうに、ぶっきらぼうに答えます。
「僕にももう少し優しければ良いんだけどな……」
 ロイ王子の何処か意味ありげな言葉に、アーサー王子はにやりと笑うと、異常なほど顔をロイ王子の耳元に近づけて、何事か囁きます。
 途端にロイ王子の頬が赤く染まり、慌ててアーサー王子から逃げるように数歩距離を取りました。なんだか怪しい雲行きです。ロイ王子は明らかに嫌がる様子で距離をとりながらも、何か拒絶出来ない理由があるかのようにそれ以上は離れず、誤魔化すように言葉を続けます。
「あ、と、とにかく旅支度は済んだんだよな。早く行こう!」
「何照れちゃってんの」
 アーサー王子は尚もロイ王子に詰め寄ろうとします。私はアーサー王子のマントの裾を咥えて、それを阻止しました。
「ん」
 アーサー王子がマヌケな顔で振り向きます。ロイ様におかしな事をしないで戴きたいわ。このいかがわしいパイン頭。
「あはは、懐かれたな」
 ロイ王子が笑いながらしゃがんで、私に優しく話しかけてくれます。
「付いてきたいのかい?駄目だよ、この先の旅は危険なんだ。」
 そっと私の頭に振れる手のぬくもりは、手袋越しにも伝わってくるようでした。
「犬に言っても分かるかよ。おい、離れろ馬鹿犬。」
 アーサー王子は、王子という身分に似つかわしくない下品な口調で言いながら、私からマントを振り解こうとします。
 それでも離さない私に、アーサー王子は怒りを露わにして睨みつけました。そして片足を後ろにすっと振り上げ……
「あ、アーサー待っ……!」
 ロイ王子の制止もきかず、アーサー王子の脚がひゅっと空を切る音がして、私は思わず目をつぶりました。
 カン!と大きな音がして、私が驚いて目を開けると、アーサー王子が蹴ったのは私ではなく、先程まで水でふやけたパンが入っていた、あの器でした。
「次はお前を蹴るぞ!あっちへ行け!」
 思わず後ずさる私をアーサー王子は恐ろしい形相で睨みつけながら、さらに怒鳴ります。
「こんな町外れにいないで、教会の側にでも行けよ。親切な人が何か恵んでくれるだろ。」
 その言葉に私ははっとしました。犬にされてから私は、人目を避けるように町外れで過ごしてきました。しかし、人目を避ける必要があるでしょうか?私がムーンブルクの王女だということに気付く人はいないでしょう。この二人が気付かなかったように。何も犬の姿であることを恥じる必要は無かったのです。犬として人に助けを求めれば、私に食べ物を恵んでくれたアーサー王子のように、助けてくれる親切な人がきっといるでしょう。
「お、落ち着けよアーサー、犬に言ってもわからないって」
 ロイ王子が狼狽えながら、まだ息を荒げているアーサー王子を落ち着かせようとしています。私は、犬の声で大きく一声吠えると、教会へ向かって駆け出しました。振り返らず、真っ直ぐに。
 ロイ様なら……この二人ならきっと、ハーゴンを倒して帰ってきてくださるでしょう。その日まで私は、この街で犬としてしたたかに生き抜いて見せますわ。
 駆けて行く途中、道にころがる粗末な器を横目に見ながら、私は生きる覚悟を決めました。

ナナ視点。ナナさん、終始敬語なので書いてて疲れました……。