妖精の笛

 マイラの温泉宿の裏側にあるすり減った古い石畳の道を、ミヒャエルは何かを探すように下を見ながら歩いている。
 暫くするとミヒャエルは、石畳の端に一つだけ他より少し白っぽく光って見える石を見つけ、ピタリと立ち止まった。その石の上に立つと、くるりと体の向きを南に変え、頭の中で歩数を数えながら歩き出す。
 途中で石畳が終わり、土の地面になる。しかし十六歩数えたところで目の前に大きな木が立ちはだかり、それ以上進めなくなってしまった。ミヒャエルは場所を間違えたかと思いながら振り返る。石畳の道を一組の男女が歩いて行く。女は小走りに男の後を追いながら、男に向かって歩くのが早いと文句を言い、男は笑って詫びながら歩幅を狭め、速度を落とした。
(ああ、そうか。)
 ミヒャエルは自分の歩幅が他人より広いことを思い出した。石畳の白い石の上に戻ると、もう一度改めて南へ二十歩の距離を慎重に測る。
 今度は何もない地面の上で二十歩が終わり立ち止まった。ミヒャエルは大体この辺だろうかと見当をつけて地面を掘り始める。温泉の裏なんかで一体何をしているのだろうかと、訝しげにその様子をじろじろ眺めるぱふぱふ娘を無視して、ミヒャエルは少しずつ範囲を広げながら地面の下を探った。
 なかなか何も出てこないのでもう一度歩数を測り直そうかと思い始めたとき、手応えがあった。何か固くて平らな形をしたものが埋まっている。壊さないよう丁寧に掘り出してみると、それは細長い小さな朽ちかけの木箱だった。
 ミヒャエルが木箱をそっと開けてみると、木箱は朽ちかけているにも関わらず、中に収められたそれは新品同様に美しかった。華奢な木の管にいくつもの小さな穴が開けられている。横笛だ。ミヒャエルはぱっと顔を輝かせて勢い良く立ち上がった。
 その瞬間、ミヒャエルは自分が掘った穴に足を取られ、思い切り前につんのめって、両手に木箱を捧げ持ったまま盛大に転んだ。一部始終を見ていたぱふぱふ娘が思い切り吹き出して笑う。
 ミヒャエルは大慌てで起き上がり手の中を確認する。箱は砕け散っていたが笛は折れていない。何処かに傷がついていやしないかとあちこち角度を変えて確かめる。どうやら無事のようだ。ミヒャエルはまだ笑い転げているぱふぱふ娘も、擦りむいた自分の鼻も気にもとめず、ほっと胸を撫で下ろした。
 ミヒャエルは人気のない雑木林の近くまでやって来ると、腰の高さ程の低い石垣に腰掛けて兜を抜いで足元の地面に置いた。いつもなら大切な兜をそんなふうにぞんざいに扱ったりはしないが、今のミヒャエルは新しい玩具を手に入れて居ても立ってもいられない子供のようだ。泥で汚れた革手袋を外してぽいっと兜の中に投げ入れると、てつのさそりを前にしたときのように、ぺろっと上唇を舐め、怪しく光る赤い眼で手にとった楽器を食い入るように眺めた。一通り眺め終えると小さな穴を指で一つ一つ優しく塞ぐように持ち、歌口にそっと唇を寄せる。
 ミヒャエルは一息で、流れるような短い旋律を奏でた。ぼうっと湯けむりで霞むマイラの町に、湖畔でさえずる小鳥の声のような澄んだ音色が響き渡る。
(妖精の笛というだけのことはあるじゃないか。)
 ミヒャエルは飾り気はないが丁寧に作られたその楽器をとても気に入り、満足そうに改めてじっくりと眺めた。そしてふと別の、とても凝った装飾が施されていたある楽器のことを思い出す。
 銀の竪琴。その昔、吟遊詩人ガライが愛用したとされる魔性の楽器だ。その音色は魔物の心を惑わせ、闘争本能を掻き立てる。弦をはじけば、いつでも好きなときに魔物を呼び寄せて戦うことが出来た。
(あれは最高の玩具だったんだがな。)
 ミヒャエルは手放してしまった竪琴を思う。竜王の居城がそびえる島へと渡るために必要な道具の一つを持つ賢者に、銀の竪琴と引き換えにその道具を渡すという条件を突きつけられ、ミヒャエルは渋々竪琴を引き渡した。
(どんなに沢山の魔物と戦ったところで、竜王と戦えないのでは意味が無い。だからあれは、渡して良かったのだ。)
 ミヒャエルはそう自分に言い聞かせる。ミヒャエルは楽器が好きだ。銀の竪琴は魔物を呼び寄せる最高の玩具である以前に、最高の楽器だったと今になって思う。銀の竪琴を手放した後、優しく空気を震わせる音色が恋しくなって別の竪琴を買い求めようと思ったが、良い楽器は高く、ミヒャエルがこれなら満足できると思った竪琴は、剣一本を買ってお釣りが来る値段だった。ミヒャエルは結局、剣を新調した。
 ミヒャエルは竪琴への思いを振り払うように、頭を振って目にかかる前髪をはらう。だいぶ伸びている前髪はすぐにまた目の上に落ちてきて、少し苛立つ。ミヒャエルは腰に下げた袋の中から細い革の飾り紐を取り出すと、額に巻いて髪を落ち着けた。
 ミヒャエルは気を取り直して、もう一度改めて妖精の笛を手に取る。そして、そういえばこの笛は誰にも渡さなくてもいいのだという当たり前のことに気が付いた。たったそれだけのことだったが、このところ一進一退で思うように進まない旅に苛立っていた心がふっとほどけ、肩の力が抜けるのをミヒャエルは感じた。この笛はもう私のものだ。ミヒャエルはもう一度歌口にそっと唇をあて、息を吹き込んだ。
 故郷でよく聴き、自分でも奏でた曲。旅の途中で聴いて覚えた曲。今思いついた曲。ミヒャエルは即興でそれらの曲を繋ぎあわせ、次々に奏でていった。いつの間にかミヒャエルの周りには小さな人垣ができていて、すべての曲を吹き終えると拍手が起り、地面に置いた兜の中に何枚かの硬貨が投げ入れられた。ミヒャエルは驚いて目を瞬かせながら兜を持ち上げ、しげしげと中を見る。
(なるほど、こういう路銀の稼ぎ方もありか。)
 硬貨を数えると、ちょうど20Gあった。20Gといえば……。
 赤みがかった金色の巻き毛の女の子がふくれっ面をする姿がなんとなくちらっと頭をよぎったが、まあたまにはいいか、とミヒャエルは温泉宿へと続く石畳の道を大股で歩いて行った。

本当は南に2歩ですがそれだと話にし難いので10倍にしてしまいました(笑)南に4歩だった……!5倍だった!(割とどうでもいい!)
珍しくミヒャエルの人間的な面が表に出てる話。
何考えてるんだかわからない感じを貫こうかとも思ってたんですが、ちょっと心の内も書いてやってみたくなったので書いてみました。
大丈夫ですご先祖様……戦闘狂野郎にもアホの子の遺伝子はちゃんと受け継がれていましたよ……。